納骨 23/Oct/1996
敬友芦塚英子からのメールにこう答えた。
芦塚>私は,やっと2年目で母の納骨をすませました。
芦塚>白萩や納骨といふ別れして 英子
笹>私も3年前、母の納骨を済ませました。
笹>その時の事を書かなければいけないと、思っています。
笹>俳諧通信に載せましょう。
追悼
母中村ツルを送る。
あなたは明治43年、まだ江戸情緒の残る東京の下町に生まれた。
画家や彫刻家や謡の師匠や古本屋の主が、娘時代のあなたを取り巻く人々だった。
あなたは2度結婚し2度夫と死別し、
6人の子を生み2人の子を失い4人の子を育てた。
あなたの歩んできた道は決して平坦な道ではなかった。
あなたの生きた時代は、日本の歴史の中で最も波乱な時代だった。
あなたはたくましく生きたのでも、上手に生きたのでもなかった。
泣き笑い小さな体いっぱい豊かな感情で生きた。
東京から、太平洋戦争の疎開で小田原へ、そして娘達の嫁いだ大阪へと
あなたは歩んできた。
老女(おうな)と童女(わらべ)黙って見つめている
時の流れに花の流れに
享年84才
羽曳野の春に微笑むように眠った。
安らかに眠れ
私達はあなたの微笑みを受け継ぐ。
平成5年4月16日 中村喜吉
平成5年4月15日 母逝く
美しきは散りざまとは誰が言う
醜きまでもしがみつけよ桜花
母逝く涙流さぬ
人の生死眦(まなじり)決して見詰めるべき
永久とは一瞬を言う仇名か
「何もしてやれなくてごめんね」と別れの電話
墓碑 平成5年7月7日
泣き笑い拙きままの戯れや
さねさす相模の沖の白波
御無沙汰しております。
その節は御厚情頂き有り難うございました。
母の逝きましたのは、桜の花の散る頃でございましたが
唯々あわただしい間に桜の葉の散る頃になってしまいました。
お陰さまで母の墓を9月に建てることができました。
墓地は母が生前、久野霊園に求めていたものでございます。
故人の遺志に従い別紙の通りにいたしました。
10月11日納骨いたしました。
お坊様のお経もお線香の煙もなく、ラジカセから喜納昌吉の「花」を流した
清明な秋の日でございました。
平成5年10月22日 中村喜吉
川は流れて どこどこ行くの
人も流れて どこどこ行くの
墓について
場所 小田原市営久野霊園
区画 20区2側10番 4平米
施主 中村喜吉
施工業者 高橋石材店(小田原市南町)
墓形式 洋形(横形 2尺X1尺5寸)
墓石、外柵 白御影、2段カロート
墓碑正面
泣き笑い拙きままの戯れや
さねさす相模の沖の白波
書は加藤元義先生
墓碑側面
施主名 中村喜吉
墓碑後面
平成5年4月15日
中村ツル 行年84才
完成予定
平成5年9月20日
その他
この墓は中村家の墓として建てる物ではない。
中村ツルの墓であり娘達の墓である。
故人の遺志で無宗教、無宗旨で中村喜吉が墓守する。
従って菩提寺はない。
法事の類は一切構えない。
「墓洗う」は「墓参り」と同じく、盆に付随する季語で
秋の季語である。陰暦、旧暦の盆は、立秋後である。
今日(16日)母の墓を洗ってきた。遠く海を眺む丘陵にある。
父も母も、互いに連れ添いに先立たれ、子を抱えて難渋
していた。世話好きな人がそれならばと。
そして私と妹が生まれた。それで11人兄弟となった。
父が死んでから、母は自分の墓について、悩み続けて、
市の墓地を買った。
母としては、初の夫には、自分が再婚してしまった故に、
後の夫には、先の奥さんに申し訳ないと、
それでどちらの墓にも入れないと、悩んでいたのだろう。
昨年4月母が死んだ。昨年の8月墓を建てた。
中村家の墓でもない。松沢家の墓でもない。生家の高橋家の
墓でもない。墓石にこんな歌を刻んだ。
泣き笑い 拙きままの 戯れや
サガミ
さねさす相模の 沖の白波
母の生涯を子の私が感じたものである。さねさすは相模に
懸かる枕詞。遥か実朝が眺めたであろう相模の海である。
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