遺書 木下恵介

1 1998・12・30 木下恵介死去、86歳というから天寿を完うしたというべきだろうが 彼が30年来作ろうとして果たせなかった映画がある。 「戦地で、私は人間の残酷さと、いじらしさの両面を見てきた。 映画人として、そういう人間性の種々相、人間のいのちの様々を 描くことが自分にとっての課題だと思った。あのとき、すでに 私の中では、生涯を通じて作るべき自分の映画が決まっていたのでは ないかとさえ思う。シナリオ『戦場の固き約束』は、そんな私の思いを ぶち込んだ作品である」−−私の履歴書 金がかかりすぎるというのが、松竹側の理由だった。 以後どこもスポンサーになろうとしなかった。要するに製作費に見合う 興業収益を見こめないということだろう。 ただ彼が上のような思いをぶつけてきている以上、 シナリオ『戦場の固き約束』は遺書。 遺書を読まずにして、冥福など俺は祈らない。   2 もうひとつ彼がなし得なかったことがある。 「人間が何かに対して注ぐ愛というものは、盲愛と呼べるくらいで  なくては本当の愛とはいえないのではないかとさえ思うようになった。  そして、だれにとっても人生の意味というものは、自分を、どれだけ  深く激しく愛してくれた者があったかによって決まるのではないかとも  考えるようになった。」−−(私の履歴書)  愛を求め過ぎたのか、彼は生涯の伴侶を得ることがなかった。  淀川長治は映画を愛し過ぎて、彼も生涯の伴侶を得ることがなかった。 木下恵介の考える愛は、ギリシャ哲学でいう、アガペでもエロスでもない。 仏教でいう慈悲でもない。まして近代ヨーロッパの博愛でもない。  肉親への家族への愛である。上の引用でわざとぼかしたものがある。 彼が「野菊の如き君なりき」で多用した卵形フレームのように。 実際に彼の愛の論理は、幸福な卵形フレームにつつまれているのだ。  「両親が私に注いでくれた愛情は、溺愛とも盲愛とも呼べるような  性質のものだったかもしれない。しかし、そのおかげで私は、  人間の愛というものが、どんなに深いものであり得るかということを  知ることができた。  ! ここに上の引用が入る。  そういうことを、すべて私は、両親の恩寵によって学んだのである」    −−−−(私の履歴書) 私の履歴書というと日経新聞が各界の功労者の思いでめいたものを書かせる の?だが、これがいつごろ掲載されたものか知らない。(日経以外もあるか な) そして今回の引用は都築政昭の「日本映画の黄金時代」で引用されていたも のから引用した。この私の履歴書も捜してみたい。 1月7日(1999)、小田原市立図書館でシナリオ『戦場の固き約束』を 見つけた。大作と思いしや、むしろ小品。大規模な戦闘のシーンなど 必要としない。金がかかりすぎるというのは、松竹の表向きな 理由で、このシナリオを読む限り、木下恵介の思い入れだけが 強くて、映画としての成功はおぼつかないと、松竹側は考えたのだろう。 もう戦争の暗い思い出をひきづってはいられない。とも考えたかもしれない。 1963年2月19日、このシナリオは書きあがっている。 1964年東京オリンピック、映画からTVに時代は移っていく。 木下恵介の冥福を祈る。

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