その5
(原文)
さるを、筑紫高良山の僧正は、
加茂の甲斐なにがしが厳子にて、
このたび洛にのぼりいましけるを、ある人をして額を乞ふ。
いとやすやすと筆を染めて、「幻住庵」の三字を送らるる。
やがて草庵の記念となしぬ。
すべて、山居といひ、旅寝といひ、さる器たくはふべくもなし。
木曽の桧傘、越の菅蓑ばかり、枕の上の柱にかけたり。
昼はまれまれ訪ふ人々に心を動かし、
或は宮守の翁、里の男ども入り来たりて、
「猪の稲食ひ荒し、兎の豆畑に通ふ」など、わが聞き知らぬ農談、
ひすでに山の端にかかれば、夜座静かに、
月を待ちては影を伴ひ、燈火を取りては罔両に是非をこらす。
(口語文)
先日、筑紫の国高良山の僧正が京にお出でになっているのを幸いに
ある人に仲介してもらって、額への揮毫をおねがいした。
この方は、加茂流の書道の名家、甲斐なにやらという方のご子息である、
思いのほか、気軽に筆をとってくださり、「幻住庵」の三字を書いて下さった。
これは、そのうちこの草庵の日々のよい記念となるだろう。
暮らすところすべて、ここのように山の仮住まいであり、旅の宿であると思い定
める私であれば
なにかれというような、立派な道具や器を集めることも無い。
ただ、旅の友としている木曾の桧の笠、越の菅の蓑を、枕もとの柱に掛けている
だけである。
昼は、ほんの時おり訪ねてくる人々の話を聞くこともあり
また、八幡宮の堂守の年寄りや、里の男たちが通りがかりに入ってきて
「いのししが稲を食います」「野兎が豆の畑にしょっちゅうやってくる」
などと、私のしらない農家の話をしていく。
日がかたむいて山にかかるようになれば、夜の寛ぎは静かに
月の出る夜はただ自分の影だけを伴って月を眺め
明かりをつければ、その昔の荘子にならって
ともし火の作る薄い陰を相手にことの是非などに思いを凝らす。
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