(注1) テキストは、 1.木藤才蔵・井本農一 校注「去來抄」『連歌論集 俳論集』日本古典文学大 系66    岩波書店  1961.2.6  (以下文献1と略す) です。他に、以下の本を参考にしています。 2.堀切実 校注「去来抄」『連歌論集 能楽論集 俳論集』新編日本古典文学 全集88   小学館  2000.9.20  (以下文献2と略す) 3.宮本三郎 校注「去來抄」『俳論篇』校本芭蕉全集 第七巻        富士見書房  平成元.7.31  (以下文献3と略す) 去來曰く とだけある段は、この部分の訳を省略しています。 (注2) 蓬莱に聞かばやいせ(伊勢)の初だより 芭蕉 @蓬莱飾りの前で伊勢からの初便りを聞きたいものです。 A蓬莱飾りを眺めていると伊勢からの初便りが聞こえてくるようです。 @とAの違いを考えました。 @の口語訳が一般的なのでしょうか。 めでたい蓬莱飾りの前にて伊勢神宮のある伊勢からの初便りを聞きたいものだ。 (文献1) 元日の床の間の古式ゆかしい蓬莱飾りを前に、静かに座していると、そぞろ神代の昔、 神々しい伊勢神宮の元朝のさまがしのばれ、伊勢からの初便りを早く聞きたいも のだと思われる。(文献2) 正月の蓬莱飾りのもとで、神々しい伊勢神宮の古式を思いやり、まずその伊勢か らの初便りを聞きたいものだと願う。(文献3) @は、「蓬莱にいせの初だよりを聞かばや」の倒置として「ばや」を意思・願望の終助詞と みています。「ばや」の終助詞には「〜のようです」という推量や形容の意味はない。だから、 最初は、わたしもAは誤りだと思いました。 しかし、この口語訳ではただの一文です。発句としての謎かけ謎解きがない。二 物衝突としても弱いと思います。仮に、謎かけ謎解きとして訳すと、 蓬莱飾りの前で聞きたいものですね、何を聞きたいって?伊勢からの初便りを聞 きたいんですよ。 謎かけといっても、答えはすでに用意されたクイズのようなものになってしまっ ていて、何の発見もない。 これに対してAは、「蓬莱に聞かばやいせの初だより聞こえむ」の省略として「ばや」 を仮定条件の接続助詞としてみています。Aをもう少し直訳気味に訳すと、 蓬莱飾りに聞くならばですよ、伊勢の初便りが聞こえるでしょう。 あれ?蓬莱飾りを見たら胸騒ぎがする!芭蕉は、蓬莱飾りから何かが聞こえてくるのを発見 したのです。その正体はなにか、という謎を投げているのです。「ば」+「や」とみて、「や」 を切れ字と見てもいいでしょう。 蓬莱飾りを眺めていて聞こえてくるものの正体を聞くならば・・・ いったい何が聞こえるのでしょうか? で、その答えも出している。発句として、謎をかけ、その謎を解いている。何か と聞くならば、伊勢の初便りが聞こえるでしょう。 助詞「ばや」は、最初は「ば」+「や」であり、接続助詞としての使い方が先行 しました。 その後、平安時代頃に終助詞としての使い方が出てきたようです。 裏付けは取っていませんが、この使い分けは必ずしも意識的に行われたものでな いかもしれない。 ならば、@とAの中間的な訳も可能でしょう。 蓬莱飾りから聞こえる何かを聞き取りたいですね、そうしたら伊勢の初便りが聞 こえるでしょう。 やはり、Aの訳がすっきりしていますね。 ただ、Aを採用するのに難点が一つ。 都・古郷の便りともあらず、いせと侍るは、元日の式の今様ならぬに神代をおもひ出でて、 「便り聞かばや」と、道祖神のはや胸中をさはがし奉るとこそ承り侍る 本文中の去来の言葉ですが、「便り聞かばや」と言っている。まさに@の形です。 うーん、やっぱり倒置なのか、それとも、上記のように、終助詞・接続助詞のあいまいさに よるものなのか・・・ この段、上野本の傍注に以下の文。 汝聞く處にたがはず。今日神のかうがう敷あたりをおもひ出でて、慈鎮和尚の詞に たより、初めの一字を吟じ侍る斗なり、と也。   あなたがこの句から読み取ったところに間違いはありません。現在でも神様がこう   ごうしいような場所を思い出して、慈鎮和尚の歌の言葉にたよって、初めの一字を   吟じましただけのことです、とありました。 (注3) 句切(くぎれ)迫(はく)なれば 注記なし(文献1) 句切(くぎれ)迫(せは)しくなれば 句切迫しくなれば(大礒義男氏蔵本)−句切迫なれば(底本=大東急記念文庫本) (校訂付記 文献2) 句切(くぎれ)迫(せはしく)なれば 句切迫くなれば(国会本・天巻本)句迫くなれば(天朱本)句切レて迫くなれば (秘訣集)句切迫れば(板本)(頭注 文献3) この読み方については、底本の形では「句、切迫(せっぱく)なれば」と読めない こともないが、頭注に示した諸本の「迫く」の送りがなに従えば、「迫(せ)くな れば」の説も出、意はゆるやかでなく断定的に切れることであり、今、大礒本『去 来抄』の「句迫(せは)しくなれば」とふりがなしたものに従った。(補注 文献3) 文献1の根拠は不明ですが、文献2・文献3は底本以外で、「く」「しく」と送り がながしてある、あるいは、「せは(しくなれば)」とふりがながしてあることに 従ったようです。 ということは、諸本の系統が明らかでない限り、必ずしも去来が書きたかったのが 「句切、迫」であるとは言い切れないでしょう。 諸本について、文献3より。( )は略称。 @底本=大東急記念文庫本(底本)  夥しい書入れ、抹消、訂正等あり推敲のあと著しく、筆蹟の研究からも去来自筆原稿と  見られる点から、最も信頼すべき底本である。紙数36葉。現存するのは「先師評」  「同門評」の2篇。元禄15年(1702年)〜宝永元年(1704年)の間に 書かれたらしい。 A国立国会図書館本(国会本)  写本1冊。「一枝菴」の蔵印あるのみで、筆者.書写年代未詳。 ただし、同一の筆蹟・装幀で、別に『三冊子』および『旅寝論』を書写し、 しかも同じ蔵印を有する二部の写本が、国会図書館に現蔵せられ、 ことに後者は安永7年(1778年)の板本の筆写で、それに、  天明7年(1787年)跋の重厚編『もとの水』の写しを付載する点等から、 或は安永(1772−1781)・天明(1781−1789)期前後のものか。  本文はまま誤写・誤脱もあるが、きわめて丁寧な筆写で、四篇を完備し、その うちの 「先師評」「同門評」について、大東急本とこれを対校するとき、 大東急本の書入れ、抹消、 訂正等の箇所も、ほぼその推敲を経た形に従って 書写しており、その意味で大東急本系統に属する。  前半二篇から類推して、「故実」「修行」の二篇の底本にした。 B天理図書館巻子本(天巻本)  巻子本2巻。筆者.書写年代未詳。本文内容はほぼ国会本と共通する関係にあり、 善本。 C蕉門秘訣集(秘訣集)  写本1冊。表紙に「去来集」、扉に「落柿舎去来述 蕉門秘訣集」、内題に 「去来集 蕉門秘訣」、 巻末に識語。  本文内容は国会本に共通する箇所が多いが、時に後掲の天理本に近い部分もある。 D天理図書館本(天理本)  写本1冊。題簽「芭蕉翁評談 去来抄 上中下合巻」。巻末の識語に、 宝暦9年(1759年) 書写本からの転写本で比較的年代の古いもの。  本文は簡略でおそらく内容の大意を取って筆写したもの。  本書には「附録」として、『花実集』より、『去来抄』に洩れた14ヶ条の 抄録を巻末に付載する。 E若海朱書校合本(天朱本)  天理本の本文に若海が別系統の異本(ほぼ板本系統に属する)によって、  詳細な朱書校合を加えたもの。潁原博士の本(岩波文庫)。 F大礒義男氏蔵本(大磯本)  写本1冊。天理本と同じく、巻末に『花実集』よりの抜抄を添えており、 大礒氏によれば、 若海が校合に供した、その別本なるものの原本系統の書と 認められる。 筆者・年代とともに不明であるが、本書には本文の一節毎に 「評」が加えられており、それが石河積翠の『去来抄評』全文である点から、 『去来抄評』成立の寛政(1789−1801) 期頃のものか。 G板本(板本)  安永4年(1775年)刊。「故実」篇を欠くが一般に最も流布したもの。  ただし、出版に際し、たとえば、「先師評」篇、越人の猫の恋の句の条のごとく、  「心に風雅有もの」とあったのを「心に俗情あるもの」と改竄したり、その他 本文に改変が 加えられている箇所が多い。 以上をまとめると、下の図になります。(書写本)(別本)は推定です。 句切迫くなれば 天巻本 ? || 句切迫なれば 句切迫くなれば 大東急本=底本→ 国会本 1702-1704 1772-1789 \ 句切レて迫くなれば 秘訣集 / ? (書写本)→ 天理本 1759 ?古い 句切迫れば 板本 ↓ 1775 ↓ 句迫くなれば (別本)→ 天朱本 ? ? ↓ 句切迫(せは)しくなれば 大礒本 1789-1801 これを見ると、去来が「くぎれせはしくなれば」「くぎれはくなれば」というつもりで 「句切迫なれば」と書いたとは断定しがたい。筆写の段階で送り仮名が入った可能性は 十分考えられるでしょう。従って、「くせっぱくなれば」の可能性も 否定できないでしょう。 さらに参考文献をあたる必要がありそうです。 (注4)    清滝や波にちり込む青松葉    さすがに清滝ですね、波に上に散り落ちる青い松葉、すがすがしい取り合 わせです。 と改めたそうです。(文献1) (注5) 身の処し方(人間の処世)(文献1) 挙動・身の処し方(人の処世のあり方)(文献2) 身の処し方(文献3) ところが、宮脇真彦(『芭蕉の方法 連句というコミュニケーション』角川選書  平成14年)によれば、孫引きで恐縮ですが、 馳走・饗応の意(出典 能勢朝次『芭蕉講座 第六巻 俳論編』昭和6年 三省堂  & 田中善信「「振舞」考‐去来句「振舞や」の解釈をめぐって‐」 『高知女子大学紀要 人文・社会科学編』24号 昭和51年  どちらも未確認) だそうです。 が、馳走・饗応説は、芭蕉の発言からもとりにくいです。「人の世や」との関連が 付かなくなってしまうからです。 それにしても、(文献1)(文献2)(文献3)とも同じ説ということは 広く採用されている説と思いますが、宮脇はまったく言及がないです。 論文じゃないからいいんでしょうけど・・・ (注6) 『森と田んぼの危機』の中で「あぜまめ」が取り上げられていました。根粒菌 による窒素固定・生態系の多様性の維持と、効用が書かれていました。「あぜま め」は1970年代まではどこでも見られたそうです。(わたしゃ記憶にない が・・・) 佐藤洋一郎 『森と田んぼの危機』 朝日選書 1999年 佐藤先生は三内丸山遺跡のクリのDNAから栽培の可能性を指摘されたので有名。 稲作の起源のご研究がメインでしたが、最近はもっと手を広げられています。 (注7)  芭蕉の言葉は 花の森とは、聞きなれず。名處なるにや。古人も、森の花と社申し侍れ。  昔の人は「森の花」と言っていた、と言っている。芭蕉はここを一般論として述 べている。去来も問題になった句を 散銭も用意がほ也森の花 として去来発句集に入れているという。ならば、芭蕉ならず、去来も納得できるだ けの根拠、古歌の例がたくさんあったと想像できる。  注記を見てみると、 「あづまぢのおいその杜の花ならばかへらんことを忘れましやは 俊頼朝臣」(夫木抄) のごとき古歌はある。(文献1・・・去来抄の口語訳をするにあたって 参照) 花の森=桜の花盛りの森。名所とすれば無季になる。 森の花=森の中に交じって咲く花。 「花の森」の用例は見当たらないが、「森の花」については 「あづまぢのおいその杜の花ならばかへらんことを忘れましやは 俊頼」(夫木抄) がある。(文献2) これに関する注釈なし。(文献3)  私はこれを何か変だと思うのだ。例になる古歌の数々が補注・別注に並べられて もいいように思うのだが、3冊ともそんなものは何もなく、たった一首なのだ。芭 蕉は、このたった一首を念頭に発言したのだろうか?  それゆえ、ここの研究がどうなっているのか知りたかったのです。  これって、私はけっこう大事だと思うのです。芭蕉がどんな歌を頭の中に入れて いたのか、さらにはどんな教養を持っていたのか、例が少なければ少ないなりに、 現代とは違う芭蕉の教養、もっといえば江戸時代の教養が知られるのではないでし ょうか?  検索も便利になった昨今、誰かやってるでしょうが、誰もやってないなら、いい 課題だと思う。   <心太さんから>   >花の森=桜の花盛りの森。名所とすれば無季になる。   そういう実景があれば春。   >森の花=森の中に交じって咲く花。   これは社、俗に鎮守の森という中の赤い鳥居なんて連想すれば   イメージはわくだろう。これは無季。   でなぜ花の森がないか それは単純で江戸時代の中ごろまでは   桜は山桜。吉野などがいい例。しいていえば「花の山」。   森のイメージが山とは別に居住地に近くの比較的平坦なところに   古来あった。   でそういうところに桜はなかった。   そめいよしのという品種が開発され、平地に桜が移され、庶民が   花見を楽しむようになるのは、江戸後期。   そのころになれば、「花の森」なんて表現してもいいような   場所は生まれていたかもしれないが。   当然芭蕉もそれ以前の人もそんな光景をみていない。 >花の森=桜の花盛りの森。名所とすれば無季になる。 >そういう実景があれば春。 >>森の花=森の中に交じって咲く花。 >これは社、俗に鎮守の森という中の赤い鳥居なんて連想すれば >イメージはわくだろう。これは無季。 > 去来発句集に   散銭も用意がほ也森の花 とあるそうですが(注記にあるだけで、未確認)、これは無季ですか? >でなぜ花の森がないか それは単純で江戸時代の中ごろまでは >桜は山桜。吉野などがいい例。しいていえば「花の山」。 > >森のイメージが山とは別に居住地に近くの比較的平坦なところに >古来あった。 >でそういうところに桜はなかった。 >そめいよしのという品種が開発され、平地に桜が移され、庶民が >花見を楽しむようになるのは、江戸後期。 >そのころになれば、「花の森」なんて表現してもいいような >場所は生まれていたかもしれないが。 >当然芭蕉もそれ以前の人もそんな光景をみていない。 > 森の件、ソメイヨシノの件、了解です。ありがとうございました。   古人も、森の花と社申し侍れ。 「こそ」が、あまり使わない「社」になっているのは、鎮守の森のイメージを重ね ているのでしょうか?考えすぎかなぁ?   <心太さんから>   >去来発句集に   >   >  散銭も用意がほ也森の花   >   >とあるそうですが(注記にあるだけで、未確認)、これは無季ですか?   「森の花」自身は無季だがこの句は春としてもいい。   神社へのお参りのための賽銭を用意してまちかまえてる。   春といっても今の俳句では新年の部類になるか。   女房か娘にせかされているようで、「森の花」にしていい句になった。   >  古人も、森の花と社申し侍れ。   >   >「こそ」が、あまり使わない「社」になっているのは、鎮守の森のイメージを重ね   >ているのでしょうか?考えすぎかなぁ?   「こそ」 社 これそのまま「やしろ」と読んでもいいんだろうね   森の花は社ですということだから。   インフォシークの大辞林   もり 0 【森/▼杜】   (1)樹木が多くこんもりと生(お)い茂っている所。   「―の都」「―に入って木を見ず」   (2)特に、神社をかこむ木立。《杜》   「鎮守の―」   この(2)の意識がつよい。村を守るものが森(樹木)であり杜(神社)で   あったわけで民族学のお話か。 「花の森」「森の花」(花=はな・・・、森=もり、杜・・・ 含めて) を使用した和歌の例 ネットの友人にお願いして、以下について検索をしていただきました。 (友達って良いなぁ・・・        て・ぬ・き・・・かも???) 八代集、新勅撰和歌集、六百番歌合、伊勢物語、大和物語、平中物語、篁物語 結果、使用例なし。 「森の花」から「花の森」へ―花見からのアプローチ 1. 伝統的な花見 花見は、もともとは田の神を迎える予祝としての行事であり宗教的な意味合いの強 いものであった。特に桜は田植えに先駆けて咲くので神聖視されたようである。 この流れに加えて、古代から、宮廷を中心とした上流層では、中国からの影響で花 を鑑賞し詩文にするという文化的な花見が行われるようになった。この対象は初期 は梅であったが平安時代の初めごろ桜に変わった。 伝統的にはこの二つの大きな流れがある。 2. 花見の大衆化の時期 安土桃山時代になると、上流層で行われた花見が、秀吉の「醍醐の花見」で代表さ れるように皇室・公家から武士の権力者のものになっていく。これは花見が殿上人 の独占でなくなったということであり、やがて花見は広い層のものとなっていく。 江戸初期では、元禄15年(1702年)の水戸屋敷の花見の気碌に見られるよう に、大名屋敷での花見になる。この屋敷の中に桜を植え込み囲い込んで花見をする という流れはさらに裕福な商人階級、農村の富裕農民へ広がっていく。 この囲い込みの花見とは別に、桜の名所に行って庶民が花見をするという習慣も生 まれてきた。京都では、室町からすでに東山が花見の名所であり、元禄時代には庶 民が飲食を伴った花見をしていた。江戸では、元禄初年頃(1688年頃)に、江 戸小網町菓子屋の娘お秋が 井戸ばたの桜あぶなし酒の酔 と詠んだ名木、秋色桜(虎の尾)があったように、元禄の頃には、上野での庶民の 花見が盛んに行われた。 庶民の花見が飲食を伴うドンチャン騒ぎであるのは、予祝行事としての花見の要素 も入っていることにもよるらしい。また、庶民が、ドンチャン騒ぎができる経済力 を持った、ということも一方では言える。 3. 江戸の町と桜 江戸の町の桜は人の手で植えたものがほとんどである。 上野も、家光が吉野の桜を移植させたことにはじまるとされている。上野寛永寺の 天海僧正が桜好きであったことによるらしい。また、東照宮の上野勧請にともなう とも。寛永寺の創建は寛永2年(1625年)、東照宮の勧請は藤堂高虎が行った (1618年)が、造替は家光が寛永4年(1627年)に行っている。このあた り、文献による異同があるが、とにかく上野に吉野の桜が植えられたのは1620 〜30年くらいであろう。その桜が育って元禄の頃には見事な花になったのであろ う。 この上野の桜が一般庶民に公開されるのは元禄11年(1698年)という文献も あるが、そうとすれば、お秋の話は矛盾するかもしれない。しかし、大部分の文献 が上野の花見を元禄初期からとしている。 谷中については、現在調査中です。 上野と並ぶ桜の名所、隅田川堤、飛鳥山は、もっと後世、吉宗の享保・元文年間 (1716〜1740年頃)に植えられた。 4. 江戸時代の桜の品種 吉野山からの移植というから、ヤマザクラの可能性が高いのではないだろうか? 桜の園芸品種を扱った最古の文献「怡顔斎桜品」松岡恕庵、宝暦8年(1758 年)では園芸品種名は300を超えているが、これ以前の史料がないのでわからな い。考古学的な資料か、植物学?造園学?あるいは都市工学あたり?をあたるしか ないようだ(グハァ)。 5. まとめ 去来が「花の森」と詠んだ元禄の頃は、「花の森」が、まさに上野や谷中(?も残 るが)で出現しつつある時代であった。上野は、どうも不忍池を中心とした古来の 霊場でもあったらしく、寛永寺や東照宮といった幕府の寺社だけではなく、お賽銭 を持って参拝するような庶民の寺社もあったようだ。 しかし、桜の寄せ植えは、まだ、隅田川堤も飛鳥山もないので、一般に認められる ほどの多さではない。 ちょうど問題になるような時期であった。これが去来抄の記述になったのではない だろうか。 花見の庶民化をとっても、まさに、中世から近世への転換点だ!(と、ひとりごと) 調べ物の途中で出会った宮本常一の言葉「信仰の花から鑑賞の花へ」、まさに「森 の花から花の森へ」だなぁ、と思いました。この人の勉強もしなくっちゃなぁ・・・   <心太さんから>   元禄2年の奥のほそみちの旅立ちで、芭蕉は   上野、谷中の花の梢、またいつかはと心細し。   と書き、その芭蕉が「花の森」とは聞かぬといっているのだから、   花の森と感じさせる風景にはいたってなかったのだろう。   が、現代でも花の森という表現は聞かない。なぜか。   ケヤキの森、ブナの林などという表現は通年の表現。   では「花の森」とは? よしんば弥生の空を覆うとも1旬をこえない。   では桜の森といいかえればいいか、どうもそんな表現を聞くことは   現代でもない。桜は森といえるほど群落がないのだ。   花見がいつごろからかというような事を調べても論をなさなかろう。 そうですね。そもそも実景としてないのだから、花見からのアプローチは失敗でした。 確かに「花の森」を検索すると固有名詞の使い方しか出てきません。 おっしゃるとおりだと思います。 「おいその杜の花ならば」の歌について―古歌からのアプローチ 森の花の例としてあげてあるこの歌について調べてみました。 1. 出典 (1) 夫木抄 夫木和歌抄(略称で夫木抄、あるいは夫木(和歌)集とも)は鎌倉後期(延慶3年、 1310年頃か)の成立。撰者は冷泉為相の門弟で遠江の豪族勝田(勝間田)長 清。17000余首を36巻596題に収めた類題和歌集。・・・なんでもありそ う・・・ ということで、この歌の前後をあげる。「巻第22雑部4森」の中にあり、 おいそのもり、息磯、近江 家集、あづまへくだり侍るとて、おいそのもりにて                              前民部卿雅有卿 かがみ山たちのくかげも猶みえておいそのもりにふれるしらゆき 承安三年経正朝臣家歌合、郭公、判者俊成卿    道因法師 みやまよりいでてやきつるほととぎすおいそのもりにまづきなくらん 花下忘帰といふ事を               俊頼朝臣 あづまぢのおいそのもりの花ならばかへらんことをわすれましやは おほかゐのもり 家集                      光俊朝臣 もみぢちるおほかゐのもりのゆふだすき又めにかかる山のはもなし この歌は、・・・ いずれも「○○のもり」という歌枕を詠んだ歌である。 (2) 散木奇歌集 夫木和歌抄がいろいろな歌集から集めたものですので、その出典の方を。 散木奇歌集は源俊頼の自撰歌集で、成立は大治2年(1127年)成立の金葉集よ り後で彼の没する翌3年までと推定される。全体は勅撰集的に整然と部立構成され ている。 ということで、上記と同様に。「第一春の部」の中ほどにある。 殿下にて雨中桜といへる心をよめる 雨ふらば枝にささせよ桜花おのがみかさのやまにはあらずや 中宮亮仲実花見にまかりけりと聞きてつかはしける うき身をば花みる人もいとひけり心は春の風ならねども 斎院にて花下忘帰といへる事を あづまぢのおいそのもりの花ならばかへらむことを忘れましやは 深山桜といふ事をよめる 山桜谷ふところにこがくれて風そよめきて花もとむなり 遠山桜といふ事をよめる 雪きえぬふじのけぶりとみえつるは霞にまがふ桜なりけり    この並び方からわかるように、この「(おいそのもりの)花」は桜である。 〔口語訳〕 (賀茂神社に奉仕する)斎院のいらっしゃるところで、花の下にいると帰るのを忘 れてしまうということを詠みました。 今目の前で見ている花が、東国へ行く道の途中にあるという「おいそのもり」の花 だったら、きっと帰ることを忘れてしまうでしょうね。 どうも「森の花」の一般的な使い方ではないようです。 2. 「おいその杜」とは では、「おいそのもり」っていったい何だ?ということですが、 老蘇森(おいそのもり)=歌枕 近江。今の滋賀県安土町大字東老蘇の奥石(おいそ)神社の森。郭公が有名。また 「老」と掛詞にして我身に喩えた表現が多く、年・霜(白髪を暗示)などの語や下 草・朽葉・嘆き(木)などの森の縁語を詠むことが多かった。 実際に現地に行って見るとまっすぐに東国を目指す東山道がこの森を突っ切っている。 まさに「あづまぢのおいそのもり」であるのを実感できた。 歌枕としては「おいそ」でなくて、あくまでも「おいそのもり」なのである。 3. まとめ ということで、この歌は「森の花」の一般的な使用例にはとてもならない。「おい そのもり」の「花」であって「おいそ」の「もりの花」ではないからである。 あああああ、ふり出しでしょ、これ!(あはは、と笑うしかないぃ・・・) 「花の森」については、この辺で、ってとこでしょう。 ただし、「森の花」については、まだ「?」です。 (注8) 紀行の『笈の小文』とは異なる。去来が注記しているように、去来も未見の 芭蕉自撰蕉門名句集のようなものであったらしい。伝存しない。(文献1) 芭蕉自撰の蕉門句集。『三冊子』などにも記されるが伝存しない。 紀行文集『笈の小文』とは別のもの。(文献2) のちに去来の付記するごとき、芭蕉自撰の蕉門句集の名。今伝存しない。(文献3) (注9)  ここも問題がある。注記を挙げておきます。    泥がめや苗代水の畦うつり    史邦  水の十分張ってある苗代田の畦を泥亀がはい上って隣の田へ移って行くさま。泥 亀はスッポンの別名。季題は苗代水で春。この句『猿蓑』には「畦つたひ」の句形 で所収。史邦は中村氏。当時京都仙洞御所に仕えていた。(文献1)  『猿蓑』に下五「畦づたひ」で所収。満々と水を張った苗代を、よたよたと泳ぎ ながら泥亀がこちらの畦からあちらの畦へと移ってゆく、の意。「畦づたひ」な ら、泥亀が畦に沿って浮びながら伝いゆく、の意。「泥亀」は鼈。すっぽんのこ と。(文献2)  復本一郎(「本質論としての近世俳論の研究」昭62風間書房、「芭蕉の言葉・ 去来抄新々講」平11邑書林・・・どっちだろう?未確認)は、田辺文里の『去来 抄解』に、泥亀は畦づたひするものではなく、畦うつりするものと説くのに基づ き、伝統的な「畦づたひ」ではなく、「畦うつり」としたところに史邦の新たな発 見があったのだと説く。芭蕉は『猿蓑』刊行後に「畦づたひ」と誤っていることに 気づいたことになる。(文献2)  下五「畦づたひ」の形で『猿蓑』所収。「泥がめ」はすっぽんの別名。「畦うつ り」なら、泥亀がこちらの畦から他の畦へ泳ぎ移るか、畦越しに隣の苗代田に移っ てゆく意となるか。(文献3)  「畦づたひ」なら、いっぱいたたえた苗代水の中で、泥亀が畦に添って浮かびな がら伝いゆく意と見られ、あるいはむしろ『猿蓑』に「畔づたひ」とあるのが芭蕉 に正された形か。(文献3)     畦うつりして蛙なく也  この歌、出典未詳。(文献1)  底本(大東急記念文庫本)はじめ「畦つたひして」を消し、改める。ただし、 「鳴子引く賎が門田のむら雀畦づたひして立騒ぐめり」(拾玉集 慈鎮)、「苗代 の水にうき寝やまかすらん蛙の声の畦づたひ行く」(夫木抄 寂蓮)などの用例は あるが、「畦うつり」の用例はない。(文献2)  底本(大東急記念文庫本)、はじめ「畦つたひして」を消し、かく改めたのは、 去来の記憶に混乱錯雑があったためか。和歌では『夫木抄』「苗代の水の(イに) うき寝やまかすらん蛙の声の畦づたひ行く」(寂蓮)その他「畔づたひ」という表 現が多く、「畔うつり」の例はかえって見えない。(文献3)  これについては、早く幸田露伴の『評釈猿蓑』に、『去来抄』の記事を疑う説も あったが、大礒義雄氏の「去来抄の問題−『畔づたひ』と『畔うつり』−」(愛知 学芸大学「国語国文学報」昭和28年12月)に、さらに詳密な考説がある。『拾 玉集』「鳴子引く賎が門田のむら雀畦づたひして立騒ぐなり」(慈鎮)、『風雅 集』「せきかくる小田の苗代水澄みて畔越す浪に蛙なく也」(後鳥羽院)その他、 「畔づたひして」とか「蛙鳴くなり」とかの和歌は多いが、「畔うつりして」の和 歌は用例が見当たらない。あるいは上記の寂蓮の歌などが混然と芭蕉の頭にあっ て、芭蕉は「畔づたひして蛙鳴くなり」と示したものを、去来が記憶違いで反対に 取り違えて、この部分を記述したものと見られ、大礒氏説に従いたい。(文献3)  問題は、 @ 「畦うつり」と「畦つたひ」が取り違えられているのかどうか? A 取り違えたとすれば、取り違えたのは、去来か、あるいは、芭蕉か? B 「畦づたひ」か「畦つたひ」か?もちろん、原文には濁点がないでしょうが、   濁点あるのとないのとでは、句の意味が違ってきそう・・・ C 「畦うつり」は、畔を越えて隣の田へ、か、泳いでこちらの畔からあちらの畔   へ、か? とりあえず、ここも保留ってことで、置いておきます。 (注10) 花の定座の句の「花」について @   打越  参宮といへば盗みもゆるしけり    (文献2) 前句    につと朝日に迎ふよこ雲         青みたる松より花の咲きこぼれ    去來 A   打越  不明 前     ぼんとぬけたる池の蓮の實         咲く花にかき出す椽のかたぶきて   ばせを @、Aとも花の座の付けらしい。これについての注記を挙げる。 @ について 花は松の花である。(文献1) 青々とみどり濃い松の木陰から、いっぱいに咲き満ちた桜の花が見えるさま。 前句を純然たる朝景色と見定めての付。一説には「花」を「松の花」が黄色い花粉を まき散らすさまとする。(文献2) 注記なし(文献3) A について 秋から春へ移るような季移り濫用は戒められている。ここは付句が花の座に当っ ていたものか。 句意は花見にとかつぎ出した縁台が足が傷んでいてかたむいているさま。前句を浅春の 池の枯れた蓮の景としてつけた。(文献1) 春、花見のために担ぎ出した縁台が少しこわれて傾いたまま残っているさま。季移りの付。 前句蓮池のほとりに縁台を案じて付けた。「咲く花」は現在ではなく過去の回想として 出されたもの。縁台のわびしい光景は前句の蓮の実のぬけたわびしさに応じ、 しかも付句一句としては現在の「花」として通用する。 一説に「咲く花」を蓮の花と見る。(文献2) 花見の季節に、池の端などにかつぎ出した縁台が、もはや秋深く、朽ち傾いて 取り残されているさま。秋季の前句に、あるいはここが花の座に当っていたものか、 花を付けた季移りの例。(文献3) 一読してお分かりと思いますが、三者三様。三冊並べると、こんな風に見えてきます。 句の解釈はこんなにいろいろということでしょうか。 それは置いておいて、問題は、「花」を「松の花」「蓮の花」と見る説。 ここで連句をやっている皆様なら、「?」でしょう。和歌でも平安中期からなら 「花」といったら「桜の花」だと思うのですが・・・なんでこんな説が出てくるのか。 注記にもあるくらいだから根拠のあることなんでしょうが・・・ ということで、これも保留! (注11) 現在議論中ですので、後日アップします。 (注12) 山路きて何やらゆかし菫草        芭蕉 といえばねぇ。心太さんの ライブラリー「菫」考   <心太さんから>   鬼貫というのは鬼のような面だからと自分に付けた号、   上のようなことも言われているのだが、   鬼のような面(つら)とは仲間内で言ったかもしれないが   どうも鬼の貫之だという。   鬼とは大きい、異形のものをしめす。   彼は紀貫之を越える詩歌の担い手にならんと欲して   この号をつけたらしい。 (注13) これも注記で意見の分かれるところ。 又も  今いう併列の係助詞に当る。(文献1)  上を受けて「これも亦(又)」の意を表す並列の副助詞。(文献2)  並列する助詞の「も」。(文献3) 力も  意味を強める副助詞に当る。(文献1)  江戸時代によく用いられた強意を表す係助詞。(文献2)  強意の助詞の「も」。(文献3) まずは、古文の教科書(精選 新国語T 古典編 明治書院 平成14年1月20日5 版)から引用。 助詞   体言又は体言相当の語に接続  格助詞      用言及び助動詞に接続     接続助詞      種々の語に接続        係助詞・副助詞・終助詞・間投助詞 と分類できるが 係助詞=上の語又は文全体にある意味を与え、「は」「も」以外は文末に一定の形     を要求する。       は(ば)・も・ぞ・なむ(なん)・や・か・こそ 副助詞=上の語に、強意・限定・程度・例示などの意味を添える。       だに・すら・さへ・のみ・ばかり・など・まで・づつ・し ということだそうです。係助詞は、受験文法によく出てくる係り結びですが、 「なむ」「や」「か」が連体形を要求し、「こそ」が已然形を要求するように、 「は」「も」は終止形を要求するのです。 ですが、「は」「も」に関しては「よくわからない」ってのも、「あり!」らしい。 なぜならば、係助詞の定義も副助詞の定義も研究者によってまちまち、もちろん分 類の境界線もまちまち、両方あわせて一分類ってのもあり、「とりたて詞」などと 別の概念まで出てくるしぃ・・・まさに文法研究の最前線らしいのです。なおか つ、その研究史をたどれば、文法研究史にもなってしまう。 注記が混乱するのもうなずけちゃったりして・・・ 頭が整理できたら、また、報告ということで、ご容赦を! (注14) 「幾」と「哉」の二つ。このころは「幾」のような疑問(詞)も切れ字として扱われた。 (注15) この句の「牛玉」とは、牛玉宝印(ごおうほういん)のことで、寺社で出すお守り札である。 牛玉は牛黄で、牛の胆嚢にできる黄褐色の結石や肝臓ガン、あるいは胃にできる胃石である。 強心剤用に使うなど貴重な漢方薬であった。 この粉末と水銀朱で印を捺すのであるから、あらゆる病気に効くと信じられ、 さらに災害除け、魔除けの護符として戸口・門口などに使われるようになった。 また、誓いのために書く起請文の用紙(料紙)として使われ、それが古文書として 残っている。中世の古文書を扱った本には、「牛玉宝印」と社寺名が大きく捺された紙に 書かれた起請文の写真がよく載っている。 http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/usimado.html 「牛玉宝印」のも文字がよくわかります。 http://www.pref.yamagata.jp/ky/museum/kymu0005b.html http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=30 起請文です。 牛玉法印の厄除札が『週刊 神社紀行』の「熊野三山」に出ていました。 カラスがいっぱい書いてあるよ。ヤタガラスの本場だもんね。 三社の違いも面白いです。 (注16) 『虚栗所収』。「草の戸に我は蓼くふ螢かな  其角」(虚栗)に対した句で、其 角の大酒を戒めた句という。(文献1) 『虚栗』所収の芭蕉の句。前書「和角蓼螢句」が示すように、其角の「草の戸に我 は蓼くふ螢哉」の句に和して答えた句。其角の句は、諺「蓼食う虫もすきずき」を ふまえ、質素な草庵で好き勝手な生活をしている自分は、さしずめ折から飛んでく る蛍‐蓼食う蛍のようなものだ、との意。「草の戸」には世外の徒としての自分、 「蛍」には夜の享楽生活が寓意されている。それに対する芭蕉の句は、自分は庭の 朝顔を眺めながら飯を食う平凡な世間並の生活をしている男なのだ、といったもの で、其角の句を打ち返して、生活も俳諧も平凡に徹すべきだとの心を寓したもの。 また一説には其角の大酒を戒めた句ともいう。(文献2) この芭蕉の句は、『虚栗』に「和角蓼螢句」と前書して所収。其角の「草の戸に我 は蓼くふ螢哉」の句に答えたもの。其角が「蓼食う虫」の諺に引っかけて、しかも 夜の生活を享楽するわが身を蛍にたとえた技巧の句に、芭蕉が答えた句である。 (文献3) <心太さんの過去ログから> 「十七日」 十七日と年月のない日付だけの手紙。   十七日              はせを 其角丈 はせをは芭蕉である。ではこの手紙に何が書かれていたか。 どこぞの親王が書いたという「酒との付き合い方」を 芭蕉が「ちょっと写し来候」 で 「貴丈つねづね大酒をせられ候故、此御文句を写して大酒御無用存候。 よって一句、 朝顔に我は飯くふ男かな はせを いかが。」 この手紙芭蕉書簡集(岩波文庫)に収められているのだが、参考の部に。 書簡集は三部に分かれていて、 1 芭蕉書簡と確実に認められるもの。 2 存偽の部 筆跡や内容から疑問があるものの真偽を確定できないもの。 3 参考の部には、偽簡と認められるが諸書に引用されたことがあるもの。 さてこの手紙何故偽手紙と言われるのか、岩波文庫の注を引用すると、 「朝顔に」の句は「和角蓼蛍句」と題して『虚栗』に出ており、同集の 「草の戸に我は蓼くふほたる哉 其角」にこたえたものであり(去来抄) 其角の大酒のみを戒めたものではない。 本書簡は、この句の訓戒の意から、其角の大酒と結びつけた偽書簡と 考えられる。文中の「ちょっと云々」の口調も、偽書簡に共通する特徴であり 、日付に月の記載がない点も同様である。 江戸時代からすでに偽手紙だとされていながらも、其角の芭蕉没後の 状況をを考えるために、現代でもいくつかの本で引用されている。 笹も三書ぐらい見た記憶があるか、がどの本も 「朝顔に」の句は其角の「草の戸」の句と結びつけられていた。 がそれに触れずさらに留守居の其角の妻に宛てられた手紙だとか 尾びれのついたものもあるらしい。 <心太さんから> 笹の過去ログを引用してくれたが、 そこで >「朝顔に」の句は其角の「草の戸」の句と結びつけられていた。 >がそれに触れずさらに留守居の其角の妻に宛てられた手紙だとか >尾びれのついたものもあるらしい。 この「留守居の其角の妻に宛てられた」説のでどころは「話のタネ」とかいう 本らしい。そんな本だからあてにならないというわけでなくて、 むしろその手の本は、「いやーそれは定説と違うよ」 「そういうことも考えられるな」という具合に喧々諤々を楽しむ目的で書かれてい る。そういう楽しみ方を知った上でそういうところから持ってくればいいんだけど ね。 (注17) 注なし (注18) 「や」の字に嘆賞のやといふはなし。五つめの「や」はうたがひの「や」とは習 ひ侍る。 では、習っていたってのは何だろうか? 『白髪集』『天水抄』『白砂人集』など連歌以来「七つのや」として、 口あひのや・切(きる)や・捨(すて)や・疑(うたがひ)のや・中のや(はさ みや)・はのや(のや)すみや をあげるが、許六のいうように"嘆賞のや"はない。今日の文法では、「や」には 係助詞(疑い・反語)と間投助詞があり、嘆賞の「や」は間投助詞に入る。 最初の文字から五つ目の「や」は疑いとする。ただし『埋木』には「五つめ、切や 也」「五つめ、疑や」と見え、去来の「元日や」は「切や」に相当することにな る。(文献2) 連歌以来、七種の「や」を説くが、『埋木』には、「五つめ、切や也」「五つめ、 疑や」と見え、五字目の「や」に二種類あるとし、「疑のや」の例として、 なつけばや雉も野心うせぬらむ をあげている。(文献3) <心太さんから> 埋れ木での「や」は主に古今集での「や」の使用例から室町時代に分類したもの > 「や」の字に嘆賞のやといふはなし。五つめの「や」はうたがひの「や」とは 習 ひ侍る。 ここのセンテンスの読み方だが、江戸時代 すでに>「や」の字に嘆賞の 意味合いを感じる人が多くいて、そういう意味合いで句が作られていただろうと いうことだ。現代でもそういう意味合いで使われてもいる。 その後の院生の研究だが  最初の文字から五つ目の「や」は疑いとする。ただし『埋木』には「五つめ、切や >也」「五つめ、疑や」と見え、去来の「元日や」は「切や」に相当することにな >る。(文献2) > そこまで調べれば、切れの「や」ってなんだと考えればよかった。 「切れ」をおくということは、その前に感動の中心が置かれることも多いのだから 切れの「や」は嘆賞の「や」ともいえるのだよ。 多分許六は笹が考えた程度のことは考えて、なおそういってるんだと思うが そこから許六という人間が見えてくるかもしれない。 院生の文章、埋木のハス読みかな。連歌以来の7つのやの例が埋木に 転載されたのであって埋木の主張ではない。 切や  鳥のこ「や」十づつ十ひらかさぬらん 疑のや なつけば「や」雉も野心うせぬらむ  ちなみに7つのやの例は 口あひのや (3つめ)  君やこんひとりはねじ(寝じ)の年こしに 切や (5つめ)  鳥のこや十づつ十ひらかさぬらん 捨や (最後のや)  あの人とはだふれんとは思ひきや 疑のや (5つめ)  なつけばや雉も野心うせぬらむ  中のや (7つめ? はさみや)  御づしにはひなやはりこのならびゐて はのや (のや)  ふじ山やこしには雲の帯のをして すみや (4つめ)  のぞくやと壁のあなたを気遣ひて 此外として こしのや (9つめ)  不孝なる心や人であらざらむ 上の区分は連歌のものとして手をいれた。 発句はその構造上切れを必要とするから「切や」が登場し、「こしのや」が此外にな った。 和歌は切れを必要としないから「切や」はなく、「こしのや」が入っていた。 江戸時代 和歌はあまりみるものの無い時代であるけど、連歌の所作よりは 和歌の所作のほうが知られていた。許六も若いころ歌学から。 (注19) 花の下は、一般的には、連歌・俳諧の宗匠の称号ということだが、 ここでは、里村家のことであるので、 連歌においては文禄4年(1595年)、秀吉が里村昌叱に花下領を付置した朱印 状を下した時から公的称号となり、元和3年(1617年)8月28日、徳川秀忠 が昌琢に花下領百石の朱印状を下して以後、里村家の当主が代々「花の下」を継ぎ 幕府の御連歌始の奉行職となった。(『和歌大辞典』 明治書院 昭和61年) う〜ん、里村昌叱ってだれ?里村昌琢ってだれ? それから、 宗祇の「花の本開百韻」が、宗匠と花の下との深い関係のはじめだとか、 二条家がだれだれに称号を許したとか、 俳諧においてはどうだとか、 芭蕉に花の本大明神が二条家から追贈されたとか、(『日本文学大辞典』 新潮社  昭和26年) 広辞苑には 室町・江戸時代、連歌・俳諧の宗匠の称号。花の下で行われた連歌の権威者が次第 に公認され、一時代に一人を限り朝廷から許されるようになった。 岩波古語辞典では 室町時代、連歌師のうちの最高権威者の称号となり、江戸時代には、里村紹巴の子 孫が代々継承した。 いろいろとあるようですが・・・ ・里村昌叱・里村昌琢について ・花の下が称号として使われ始める経緯(特に宗祇の) ・二条家(&朝廷)と花の下の称号との関係 ・俳諧においてはどうだったのか? etc.ご存知の方、調べた方、お教えくださいませ。 <心太さんから> そういうのは辞典での項目をいくらひっぱってもわからない。 縦に考えなければ、 鎌倉末期から連歌熱というものは相当なもので、その熱気の中で 花の下連歌なんても起きてきた。それと平行して宮廷でも連歌の人気が 高まった。堂上と地下(ちげ)。 その融和、統一を図ったのが、二条良基だった。時の北朝方の左大臣だったかな。 基良のブレーンに心敬というのがいて連歌の式目を良基と改良完成させてた。そ の実践者が宗祇という役割。 時代は足利義満によって南北朝統一。宗祇は北野天満宮の連歌奉行という 名誉職が与えられた。二条良基推薦、足利幕府公認。 それは現代でいえば連歌協会の会長。宗祇は持ち回りですぐかわったが花の下宗匠と いう通称は残った。これを二条家が利用した。 このわかりにくい構図は、秀吉のブレーインには権威者による文化保護という形で 解釈された。天下を統一したものの貫禄というわけだ。たまたまそのときの 秀吉に連歌の手ほどきをしていたのが、里村何某、諸国の大名に広く出入りしていた 連歌師。彼も身分の安定がほしかったし、秀吉は貫禄を示したかった。 で秀吉認可の花の下宗匠 その意識は徳川幕府にも引き継がれ、里村家は幕府に取り入って 今度は徳川幕府認可の花の下宗匠。 江戸にいる諸侯を会しての連歌初めために、江戸幕府の禄を食んだ。 一方没落貴族の二条家は自分の所の認可事項だとして、いろいろな人間に 花の下宗匠という名前を与えた。それなりの認可料を取ったわけだ。 要するに花の下宗匠というのは、権力者との馴れ合い。あるいは権威をほしがった 人間と没落貴族との馴れ合い。 まー 価値があるのは宗祇ぐらいか。 (注20) 古今和歌集  巻第九  羇旅歌    東へまかりける時、道にて、よめる          貫之  糸による物ならなくにわかれ路の心ぼそくも思ほゆる哉 「糸による物」とは、糸に撚り合わせる片糸、細い! 「わかれ路」とは、都から別れて遠隔の地へ行く道。二つに分かれる道という説 も。 (注21) 徒然草  第14段  和歌こそ猶おかしき物なれ。あやしのしづ、山がつのしわざも、言ひ出でつれば おもしろく、恐しき猪も、「臥す猪の床」と言へば、やさしく成ぬ。  この頃の歌は、ひとふしおかしく言ひ叶へたりと見ゆるはあれど、古き歌どもの やうに、いかにぞや、言葉のほかにあはれにけしき覚ゆるはなし。  貫之が、「糸による物ならなくに」といへるは、古今集の中の歌の屑とかや言ひ 伝へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。その頃の歌には、姿・ 言葉、(この)たぐひのみ多し。此歌に限りてかく言ひ立てられたるも、知りがた し。源氏の物語には、「物とはなしに」とぞ書ける。  新古今には、「残る松さへ峰にさびしき」といふ歌をぞ言ふなるは、まことに、 少し(く)だけたる姿にもや見ゆらむ。されど、この歌も、衆議判の時、よろしき よし沙汰ありて、後にも、ことさら感じ仰せ下されけるよし、家長が日記には書け り。  「歌の道のみ、いにしへに変らぬ」など言ふこともあれど、いさや。今も詠みあ へる同じ言葉、歌枕を、昔の人の詠めるは、さらに同じ物にあらず。やすくすなほ にして、姿も清げに、あはれも深く見ゆ。  梁塵秘抄の郢曲の言葉こそ、又あはれなることは多かめれ。  昔の人は、たゞいかに言ひ捨てたることぐさも、皆いみじく聞ゆるにや。  「糸による物ならなくに」の歌が、悪く言われているが、吉田兼好は、今の人に は詠めない、源氏物語に引用されている、と、この歌を評価している。 源氏物語  総角  (途中から)  名香の糸ひき乱りて、「かくても経ぬる」など、うち語らひ給ふほどなりけり。 結びあげたるたゝりの、簾のつまより木丁のほころびに透きて見えければ、その事 と心得て、「わが涙をば玉にぬかなん」とうち誦じ給へる、伊勢の御もかくこそあ りけめとおかしく聞こゆるも、うちの人は、聞き知り顔にさしいらへ給はむもつゝ ましくて、ものとはなしにとか、貫之がこの世ながらの別れをだに、心ぼそき筋に ひきかけけむもなど、げに古言ぞ人の心をのぶるたよりなりけるを思ひ出で給。 貫之は旅の別れ、源氏物語のここは死別。八宮の一周忌を準備に名香の糸を用意す る姫君たち&薫。 (注22) 新古今和歌集  巻第六  冬歌   題しらず               源信明朝臣 ほのぼのとありあけの月の月かげに紅葉ふきおろす山おろしの風 「ささめごと」から  又、古人の教へ侍るに、此の歌を胸におきて歌を案じ給へといふ。   ほのぼのと有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしの風                           源信明朝臣 これも、艶にさしのびのどやかにして、面影・余情に心をかけよ、といふなるべ し。この道に入らむともがらは、先づ艶をむねと修行すべき事といへり。艶といへ ばとて、ひとへに句の姿・言葉の優ばみたるにはあるべからず。胸のうち人間の色 欲もうすく、よろづに跡なき事を思ひしめ、人の情けを忘れず、其の人の恩には、 一つの命をも軽く思ひ侍らん人の胸より出でたる句なるべし。 「吾妻問答」から 一、文字余りの事、人により侍るとは、さやうに候哉。  答へて云はく、貴所などにて其の憚りなきに侍らず。但、余して悪しからんはい かゞせむ。余るうちにおいて差別侍るべきにや。歌は文字三など余す事もあり。   ほのぼのと有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしの風 是尤も名歌なり。連歌にいたりては、聞きよからむ、よく侍るべきにや。たとへ ば、入相の鐘に、有明の月の、思ひ出づる、昔おもふなど可然候哉。野辺の露はな どは少し耳に立ち候哉。如此事、其の理分別大事に候哉。然れども、心にかけ給ひ 候はば、其のさかひに入り給ふべき事、うたがひ有るべからず候。 藤原定家も「近代秀歌」「詠歌大概」に引いています。 評判のいい歌なんですね。 (注23) 妻呼ぶ雉子の身をほそうする(先師評)(修行) あくるがごとく小糠雨降る(修行) (注24) 林和靖はおくり名。林逋が本名。あざなは君復。 宋の時代、銭塘(浙江省杭州)の人。 乾徳5年(967年)に生まれ、天聖6年(1028年)62歳で没。 よくお勉強したが、役人にはならず、隠遁生活。 西湖の孤山に廬(ロ・いおり)をむすび、 杭州の町には20年間行かなかったとか。 庭に梅を植え、鶴を飼い、独身で 「梅が妻で、鶴が子どもですよ(梅妻鶴子)」と言っていたとか。 小舟で近くの寺々に出かけた時は、 留守中にお客があると留守番の童子が鶴を飛ばして知らせたそうです。 お客が来ると鶴を飛ばしたという話から、   梅白しきのふや鶴をぬすまれし の句は、   梅が白く咲いていますね、林和靖先生のお宅みたいですね。それにしては、 ご主人がなかなか出てきませんね。昨日、連絡用の鶴を盗まれてしまったので、 お客が来たことを知らせられないのでしょうか? という解釈もできそう・・・ 廬のそばに自分の墓をつくって、 実用書なんか残すものか!という詩も書いている。 そんなくらいだから、詩ができてもすぐに捨ててしまったらしい。 それでも残ったものが「林和靖詩集」としてまとめられ、 日本でも愛好されたそうです。 特に梅を詠んだ詩は有名で(私はさっぱり知りませんでしたが・・・汗)   山園小梅           さんゑんのせうばい  衆芳揺落独暄妍       しゅうほうえうらくしてひとりけんけん  占尽風情向小園       ふうじゃうをしめつくしてせうゑんにむかふ  疎影横斜水清浅       そえいおうしゃみづせいせん  暗香浮動月黄昏       あんかうふどうつきくわうこん  霜禽欲下先偸眼       さうきんおりんとほっしてまづめをぬすみ  粉蝶如知合断魂       ふんてふもししらばまさにこんをたつべし  幸有微吟可相狎       さいはひにびぎんのあひなるべきあり  不須檀板共金尊       もちひずだんぱんときんそんと (注25) 「論語」 雍也第六  から 宰我問曰、仁者雖告之曰井有仁焉、其従之也。子曰、何為其然也。 君子可逝也、不可陥也。可欺也、不可罔也。 さいがとひていはく、じんしゃはこれにつげてせいにじんありといふといへども、 それこれにしたがはんやと。しいはく、なんすれぞそれしからん。 くんしはゆかしむべし、おとしいれるべからざるなり。 あざむくべし、しふべからざるなりと。 宰我が「仁徳のある人は、井戸に人が落ちていると告げられてたら、 すぐに井戸に飛び込むんでしょうか?」と尋ねました。 孔子は「どうしてそんなことがありましょうか。 君子はすぐにそこにかけつけますよ。 でも、無分別ではありませんから、 だまされて、井戸に落ちるようなことはありませんよ。 君子は道理のあることでだまされても、道理のないことではだまされませんよ。」 と答えました。 ここの宰我という人は、魯の人らしいが生没年不明。 雄弁家ですが、論語では、昼間に寝室で寝ていてしかられたり、 周が栗の木を社に用いる理由をいいかげんに答えたことでしかられたり・・・ こういうキャラって・・・たはっ! (注26) <心太さんから> ここに注訳をいれると、すでに荒木田守武によって千吟、俳諧(滑稽・機転) の付け合いでつけられているが、独吟ということで、去来はふれなかったのかもしれ ない。 (注27) <心太さんから> この辺、現代の国文学者が連歌の式目を持ち出して歌仙(俳諧)の指導・普及に あたっている現状と似ている。 (注28) <心太さんから> 芭蕉門では、詩、歌、連、俳 と横並びで、さらに俳は 詩、歌、連がとりこぼす 日常の些細な事、俗事も取り上げるということになっている。 (注29) 『古今著聞集』 巻第五(和歌第六)       右大将頼朝北条時政と連歌の事  同大将、もる山にて狩せられけるに、いちごのさかりに成たるをみて、ともに北 条四郎時政が候けるが、連歌をなんしける、    もる山のいちごさかしく成にけり 大将とりもあへず、    むばらがいかにうれしかるらむ 「もる」は、守る・養育するの意味の「もる」と守山とをかけた。 「いちご」は、苺と市子(町の子ども)とをかけた。 「さかしく」は、盛りである意味と賢い意味とをかけた。 「むばら」は、茨と姥らとをかけた。 <心太さんから> こういう付け合いが初期の連歌(連句)でだいたい短連(数句程度) いわゆるかかりの洒落にかかりのしゃれでうける。 頼朝がどこで連句をまなんだかというと、おそらく伊豆流人の無聊の 時代。 (注30) <心太さんから> 『源平盛衰記』いまだに見つからないので、『去来抄』の注記を挙げておきます。 東海道にある鞠子川に波が立っているのを、それは蹴ったからだろうとし、付句で、 波が立っては人が川を渡りにくく思うだろうとした。「かゝり」は、蹴鞠の庭。 また庭に立てる木。(文献1) 『源平盛衰記』巻三十七に出る梶原景時と頼朝の唱和(句形に多少の異同あり)。鞠子川(酒匂川)は相模にある。 川を渡るとき、景時の馬が荒れて波を蹴かけたので、 頼朝がにらみ返すと、景時が前句を詠み、頼朝も機嫌を直して付句を詠んだもの。 鞠子川に鞠を、波の「かかる」に蹴鞠の庭の意の「かかり」を言い掛けている。(文献2) 『源平盛衰記』(巻三十七)に、頼朝、梶原景時と上洛のとき、相模の 円子(まりこ)川を渡るに、景時の馬が荒れて「鎌倉殿(注、頼朝)に水をさゝと 蹴懸け奉る。御気色悪しく、きと睨み返り給ひたりけるに」、梶原が「円子川ければぞ 波はあがりける」と詠むと、頼朝は機嫌がなおって、馬の頭を梶原に引き向けて、 「かゝりあしくも人や見るらむ」と付けたことが見える。 「まりこ川」に鞠を言いかけ、波の「かゝる」を、蹴鞠を行う庭の意の「かゝり」に 言いかけた付合。(文献3) 『源平盛衰記』入手可能な方、ここの部分の引用お願いします。 <心太さんから> >鞠子川(酒匂川)は相模にある。 ここで笹は生まれた。酒匂川の古名でもあるし、現代は支流の名になってるかな 国道一号線を東京から西へ、神奈川県小田原市に入って酒匂川を渡る。その手前に 連歌橋という数10mの橋がある。そこがこの連歌の場面だといわれている。 室町時代に活躍した連歌師二人が小田原の近くで終焉。 心敬は大山(神奈川県伊勢原市)、宗祇(神奈川県箱根町) 連歌・連句と縁があったのか うーん。 (注31) <心太さんから> 弥生 ここみて自分で驚かなかったかい。切れ字の「や」(切れ字の「や」を含む7 つの「や」)。これは連俳とも秘してたんじゃないかい。 口伝になるのか、俳論集を伝授し、それと同時に秘密の部分だからと口授する そういう形か。 埋木がその一部分をほのめかしたということか。だとしたら文献にでてこないな うーん。 この項目、(注18)もあわせてご参照ください。 (注32) <心太さんから> これは猿蓑の中の「灰汁桶」という歌仙で詠まれた。 なぜ糸桜が許容されたかというとその歌仙の流れによることが大きい。 昼ねぶる青鷺の身のたふとさよ 芭蕉 しょろしょろ水にゐのそよぐらん 凡兆 ゐ(いぐさ) 糸桜腹いっぱいに咲にけり 去来 春は三月曙のそら 野水 しょろしょろ水がなかったら 糸桜腹いっぱいを笑って許さなかっただろうね この挙句春の弥生でないとこもいいね。 (注33) 文亀元年の肖柏の式目改訂は後柏原天皇の勅宣によると伝えられていた。例えば 『俳諧破邪顕正』に「然るに宗因連歌勅宣の新式かつて弁へず。」但しその改訂式目にも 「恋句只一句にて止事無念」とのみある。『連歌初心抄』等には 「つづき二句より五句迄不苦」とある。(文献1) 文亀元年(1501)、牡丹花肖柏が連歌式目に改訂新式の追加をしたのは、 後柏原天皇の勅諚によるものと伝えられる。 そこには「恋句ただ一句にて止む事無念」とある。(文献2) 文亀元年、牡丹花肖柏が連歌の式目を増補改訂したのは、後柏原天皇の 勅諚によると伝えられていた。(文献3) (注34) 真田増誉著『明良供範』などに、松平信綱が橋の反り加減を、扇を開いて将軍家光に 見せたという逸話が見える。(文献2) (文献1)(文献3)は具体的な出典を挙げていない。 知恵伊豆(松平信綱)のエピソードを「名将」といっていいかどうか?わかりません。 (注35) 『山家集』  下雑     串に刺したる物を商ひけるを、何ぞと問ひたれば、     蛤を乾して侍なりと申けるをきゝて 同じくはかきをぞ刺して乾しもすべき蛤よりは名もたよりあり 牡蠣→柿 串に刺して乾すから 干柿に通じるという。 蛤 →栗 よりは、干柿の連想の方が良い。 また、牡蠣を乾したものは干し柿に通じるので、殺生の罪をやわらげる。 と複数の本に注記されている。 一方、去来は 牡蠣→看経(かんきん=読経)と考えた。 「老の字力あり」とは 「論語」為政第二の有名な箇所から 子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、 七十而従心所欲、不(足兪)矩。 七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を(足兪)(こ)えず。 ここの「のり」も関係しているかも?(心太さんから) (注36) <心太さんから> 歌は其(一)也。其内品あり。俳諧は其一つ也。 ・・・・ 俳諧を以て文をかくは俳諧文也。歌を詠む は俳諧歌也。身を行はゞ俳諧の人也。 何年前に出会った言葉だろうね。そうこれで 私のWebは心太俳諧通信と名乗りをあげたわけだ。 1年ぐらいたった時だったか、俳句と短歌と雑文しか乗せてないのに 俳諧とはけしからんとお叱りのメールをいただいた。 ちょっとまってくれー 広義の俳諧って俳諧連歌(連句)だけを指すもんじゃ ないよ。 5年ぐらいたったときか、俳諧って俳句の事だとおもってたのに 連句ばっかりとまたお叱りを受けた。 ちょっとまってくれー狭義の俳諧って連句を指すんだよ 身を行けば俳諧してるかな、徘徊してるかな。 我が身のことはどうなんだろう? (注37) 「俳諧」も「六義」も『埋木』の弥生注釈を参照してください。 (注38) 春望    杜甫   国破山河在   国破れて山河在り   城春草木深   城春にして草木深し   感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺ぎ   恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす   烽火連三月   烽火 三月に連なり   家書抵万金   家書 万金に抵る   白頭掻更短   白頭 掻けば更に短く   渾欲不勝簪   渾て簪に勝えざらんと欲す (注39) 古今和歌集   巻第二  春歌下 僧正遍昭に、よみて、贈りける     惟喬親王 桜花ちらばちらなむちらずとて古里人の来ても見なくに (注40) 奥義抄  藤原清輔 著。歌学書。天治元年(1124年)〜仁平元年(1151      年)くらいの成立。 (注41) 若海校本・贄川本等「ふるふがごとく」。底本誤写か。小糠雨はこまかい雨。  黒土の壁ぬり廻す片びさし   景桃   ふるふがごとく小糠雪ふる  鳳仞   (藤の実) に対し、芭蕉が   うちあくる如小糠雪ふる と作れば句勢があるといった。(文献1) 惟然編『藤の実』(元禄7年刊)所収の「木の本に円座取巻け小練年」六吟歌仙の 初表六句目に「ふるふがごとくこぬか雪ふる  鳳仞」とある。 去来の「あくるがごとく」の初案を直して鳳仞(野明)の句としたものか。 「ふるふ」は篩にかけること、「こぬか雪」は粉糠のように細かい雪。(文献2) 『藤の実』所収歌仙中の鳳仞の付句「ふるふがごとくこぬか雪ふる」をさす。 大磯本・板本「ふるふが如くこぬか雪ふる」。 天朱本「ふるふがごとく小ぬか雨ふる」。(文献3) (注42) 若海校本等「我ごと物や思ふらん」がよい。「うちあくるごと」に対して 「我ごと・・・」といったもの。(文献1) 『古今集』巻四所収の 「秋の夜のあくるも知らず鳴く虫はわがごとものやかなしかるらん」(敏行朝臣) などの語法をさしたもの。(文献2) 国会本および天巻本・大磯本には「我も」とあるが、天朱本により、いま改めた。 「こと」の続け字を「も」と誤写したと認められる。 『古今集』「秋の夜の明くるも知らず鳴く虫はわがごと物やかなしかるらん」(敏行朝臣) などの語法をさしたものと見られる。(文献3) (注43) 本文『国史大系』 旧字体は新字体にしました。 読み下しと訳は弥生です。(あやしい・・・) 吾妻鏡 文治2年8月(1186年) 十五日己丑。二品御参詣鶴岡宮。而老僧一人徘徊鳥居辺。 怪之。以景季令問名字給之処。 佐藤兵衛尉憲清法師也。今号西行云々。 十五日己丑。二品鶴岡宮に御参詣あり。 しかるに老僧一人鳥居の辺に徘徊す。 これを怪しみ、景季をもって名字を問はしめたまふのところ、 佐藤兵衛尉憲清法師なり、今西行と号すと云々。 十五日己丑。頼朝が鶴岡八幡宮にご参詣された。 その時、老僧が一人、鳥居のあたりをうろうろしていた。 頼朝は怪しいと思って、景季に名前を尋ねさせた。 すると、「佐藤兵衛尉憲清法師です、 今は西行と号しています・・・」という答えであった。 仍奉幣以後。心静遂謁見。可談和歌事之由被仰遣。 西行令申承之由。廻宮寺奉法施。 よって奉幣以後、心静かに謁見を遂げ、 和歌のことを談ずべきのよし仰せ遣はさる。 西行承るのよしを申さしめ、宮寺を廻りて法施を奉る。 そして奉幣の後、心静かに謁見をし、 和歌のことを語り合おうと仰せになった。 西行は承知いたしましたと申しあげて、 宮寺を廻ってお布施を奉った。 二品為召彼人。早速還御。則招引営中。及御芳談。 此間。就歌道并弓馬事。条々有被尋仰事。 二品彼人を召さんがため、早速に還御あり。 すなはち営中に招引し、御芳談に及ぶ。 この間、歌道ならびに弓馬のことについて、 条々尋ね仰せらるることあり。 頼朝は西行を召そうと、早速お帰りになった。 すぐ本陣に招き入れ、ご歓談に及んだ。 この間、和歌の道と弓馬の道について一つ一つお尋ねになった。 西行申云。弓馬事者。在俗之当初。憖雖伝家風。 保延三年八月遁世之時。秀郷朝臣以来九代嫡家相承兵法焼失。 依為罪業因。其事曽以不残留心底。皆忘却了。 詠歌者。対花月動感之折節。僅作卅一字許也。全不知奥旨。 然者是彼無所欲報申云々。 西行申して云はく、弓馬のことは、在俗の当初、 なまじ家風を伝ふといへども、保延三年八月遁世の時、 秀郷朝臣以来九代嫡家相承の兵法焼失す。 罪業の因たるにより、そのことかつてもって心底に残し留めず。 皆忘却しおはんぬ。詠歌は、花月に対ひて動感之折節、 わづかに三十一字を作るばかりなり。まったく奥旨を知らず。 しかればこれかれ報じ申さむと欲すところなしと云々。 西行が申して言うには、「弓馬のことは、出家前のころ、 なまじ私の家は武家の家風を伝えるといっても、 保延三年八月遁世の時に、秀郷以来九代代々嫡男が伝えてきた 兵法を焼いてしまった。代々の兵法なんてものは 罪業の因であるのだから、 それ以来そのことは少しも心に残っていない。 みんな忘却しきってしまいました。 歌を詠むのは、花月に対して感情を動かされた折々に、 わずかに三十一字を作るだけです。全然和歌の道の奥義など知らない。 だからあれこれお知らせ申しあげることもない・・・」 然而恩問不等閑之間。於弓馬事者。具以申之。 即令俊兼記置其詞給。縡被専終夜云々。 しかれども恩問等閑ならざるの間、弓馬のことにおいては、 つぶさにもってこれを申す。 すなはち俊兼をしてその詞を記し置かしめたまふ。 こと終夜を専らにせらるると云々。 けれども頼朝が大変親しくご質問されるので、弓馬のことについて、 西行は詳しく申しあげた。 そこで頼朝は俊兼にその言葉を記録させた。 一晩中かけてお話なさった。 十六日庚寅。午刻。西行上人退出。頻雖抑留。敢不拘之。 二品以銀作猫。被宛贈物。 上人乍拝領之。於門外与放遊嬰児云々。 十六日庚寅。午刻。西行上人退出す。 しきりに抑留すといへども、あへてこれを拘めず。 二品銀作の猫をもって、贈物に宛てらる。 上人これを拝領しながら、門外において放遊嬰児に与えると云々。 十六日庚寅。正午前後。西行上人が退出した。 しきりに引きとめたが、無理にはとどめなかった。 頼朝は銀製の猫を西行への贈り物にした。 西行は拝領したが、門の外に出た所で そこで遊んでいる子供にあげてしまった・・・ 是請重源上人約諾。東大寺料為勧進沙金。赴奥州。 以此便路。巡礼鶴岡云々。 陸奥守秀衡入道者。上人一族也。 これ重源上人の約諾を請ひ、東大寺料沙金の勧進のため、奥州に赴く。 この便路をもって、鶴岡に巡礼すと云々。 陸奥守秀衡入道は、上人の一族なり。 西行は重源上人の承諾をもらって、東大寺のための砂金の勧進のため、 奥州に赴いたのだ。その通りがかりに、鶴岡八幡宮に巡礼した・・・。 陸奥守秀衡入道は、西行の一族である。 (注44) 『山家集』  羇旅歌   世をのがれて伊勢の方へまかりけるに、鈴鹿山にて 鈴鹿山うき世をよそにふりすてていかになり行く我身なるらむ (注45) 「末摘花」から、源氏が末摘花と逢い、その姿を見た後、退出する場面。 御車いづべき門は、まだ開けざりければ、鍵の預り、たづね出でたれば、翁の、い といみじきぞ、出で来たる。むすめにや、孫にや、はしたなる大きさの女の、衣は 雪にあひて煤けまどひ、「寒し」と思へる気色深うて、怪しき物に、火をたゞほの かに入れて、袖ぐくみに持たり。翁、門をえ開けやらねば、よりて引き助くる、い と、かたくななり。御供の人、寄りてぞ開けつる。 この後源氏は、末摘花の面倒を見ようと、衣類の贈り物をしたりした。もちろん、 この翁にも衣類を与えた。 (注46) 「総角」から、大君のセリフの中に、 「我も、やうやう、さかり過ぎぬる身ぞかし。鏡を見れば、痩せ痩せになりもて行 く。おのがじしは、この人どもも、『われ、悪し』とやは思へる。後手は知らず顔 に、額髪をひきかけつゝ、色どりたる顔づくりをよくして、うち振舞ふめり。わが 身にては、『まだ、いと、あれが程にはあらず、目も鼻も、なほし』とおぼゆる は、心のなしにやあらん」 『源氏物語』は、あちこちに出没。『埋木』では『伊勢物語』が多かったようです が・・・ 『連理秘抄』 一、連歌は心よりおこりて、みづから學ぶべし。さらに師匠の佑佞襪箸海蹐砲△   ず。常に好みもてあそびて、上手にまじるべし。(中略)只堪能に練習して、   座功をつむより外の稽古はあるべからず。その上に、三代集・源氏の物語・伊   勢物語・名所の歌枕、かやうの類を披見して、有レル興さまにとりなすべし。 藤原俊成も『六百番歌合』冬上 枯野 十三番 で 左 勝 見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに  女房 右   霜枯の野辺のあはれを見ぬ人や秋の色には心とめけむ   隆信朝臣      右方申云、「草の原」、聞きよからず。左方申云、右ノ歌、古めかし。      判云、左、「何に残さん草の原」といへる、艶にこそ侍めれ。右ノ方       人、「草の原」、難申之条、尤うたゝあるにや。紫式部、歌詠みの程よ      りも物書く筆は殊勝也。其ノ上、花の宴の巻は、殊に艶なる物也。源氏      見ざる歌詠みは遺恨ノ事也。右、心詞、悪しくは見えざるにや。但、常      の体なるべし。左ノ歌、宜、勝と申べし。 なんてのは、ほんの一端でしょうね。